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無事に返してほしければ 第一回

by 小説丸

死んだはずの息子が誘拐された。それは一家崩壊の序章に過ぎなかった。

先読み書店員の98%が呆然・驚愕した誘拐ミステリーを、先行公開。

あなたもきっと、騙される!

著 白河三兎

第一章 熊と雛

「啓太が生きてるの!」

 令子の鬼気迫る声が鼓膜に響く。私はスマホを少しだけ耳から離して「大丈夫か? 落ち着け」と宥めた。

「生きてるの!」

「何があったんだ? 悪い夢でも見たのか?」

「拓真、本当なの!」

「ちゃんと薬は飲んだのか?」

 心の病を抱えている妻は医師から精神安定剤を処方されている。

「電話があったの。公衆電話から。うちの家の電話に」と令子は主張する。

「わかった。すぐに仕事を切り上げる。詳しいことは帰ってからじっくり聞くよ」

「うん」

「じゃ、あとで」と言って、私は通話を終えた。

 厨房に戻り、スーシェフに「すまん。また妻の具合が悪くなったから、帰らせてもらう。二月のメニュー構成は稲垣が決めてくれ」と伝える。私が早引けや中抜けすることはもう日常茶飯事になっているので、彼はすんなり応じた。他のスタッフにも動揺や不満は見られない。

 厨房の中心的存在はスーシェフの稲垣だ。料理の腕もさることながら、統率力も指導力も高い。どのスタッフも料理長の私より彼を慕っていることだろう。

 私も稲垣に厚い信頼を寄せ、手が回らない時は彼に全権を委ねている。稲垣に好きなようにやらせて失敗したことはなかった。作業台に並べられた試作料理はまだ三皿しか口をつけていないが、稲垣の舌に任せておけば問題ない。

 来月の新メニューを決める会議を途中で放り出す。オーナーシェフとしてあるまじき行為だけれど、私の中で優先順位ははっきり定まっている。料理人である前に人間だ。人としての、夫としての務めを果たさなければならない。

 最愛の息子を失ったショックで令子は精神を病み、この二年半ずっと不安定な状態が続いている。ヒステリックに『私の啓太!』『まだ六歳だったのに!』『きっと悪夢よ!』などと喚き散らしたり、何日も塞ぎ込んだり。

 私の仕事中にわけのわからない電話をかけてくることもしばしばある。ひどい時には『何もかも拓真のせいよ!』と責め立てられたが、妻の言う通り、元凶は私なのだ。

 二人乗りのカヤックで川下りをしている時に、周囲に注意を払っていれば悲劇は起きなかった。気付くのが遅かったせいで、斜め後ろから突っ込んできた無人のカヤックを避けられなかった。

 衝突した弾みでカヤックは大きく傾き、私と啓太は投げ出された。水面から顔を出すと、目の前に息子が浮かび上がってきた。流れの速いポイントだ。離れ離れになったら危ない。早く啓太を掴まえないと。

 手を伸ばそうとした瞬間、後頭部に強い衝撃を受けた。そこで記憶がぷっつり途切れた。意識を取り戻した時には、救急車に乗せられていた。カヤックの先端が頭にぶつかり、そのショックで気を失ってしまったのだ。

 私は幸運に命を救われた。うつ伏せの姿勢のまま流されていたら、あるいは岩や流木に接触した拍子にライフジャケットに穴が開いていたら、行き先はあの世になっていた。

 しかしその奇跡に感謝したことは一度もない。むしろ呪っている。私が死ぬべきだった。私の代わりに啓太を生かしてほしかった。警察と消防が約百五十人態勢で河口や川底を捜したが、息子は見つからなかった。捜索は一週間で打ち切られ、啓太は死亡したものと見なされた。

 川の恐ろしさをしっかり認識しているつもりだった。ライフジャケットの浮力があっても、川には浮かない場所や浮遊物を川底へ沈める流れがある。ライフジャケットは最低限の安全対策でしかないことはわかっていたのに。

 どこか他人事のように思っていたのだ。若い頃から慣れ親しんでいた川だからか、『私たちの身に起こるわけがない』という根拠のない自信があった。時折、水難事故のニュースを見聞きするけれど、まさか自分たちが当事者になるなんて……。

 急いで車を走らせて帰宅すると、娘の亜乃がガレージにやって来て「パパ、お帰り」と出迎えてくれた。

「ただいま。ママは?」

「リビング。ずっと何かぶつぶつ言ってる」と伝えた娘は浮かない顔を見せる。

 亜乃の首筋にチェーンが見えた。先月の十二歳の誕生日にプレゼントしたターコイズのペンダントだ。その石には邪悪なものから持ち主を守り、勇気を与える力があると言われている。

 私は腰を屈めて目を合わせ、「ママのことはパパに任せろ。亜乃は自分の部屋にいなさい」と穏やかに言った。

「はい」と返事し、亜乃が階段を上って三階の自室へ向かう。

 私もあとに続いて二階へ上がり、リビングダイニングに通じるドアを開けた。窓辺に佇んでいた令子に「ただいま」と声をかける。すると、慌ただしく駆け寄ってきた。

「拓真、聞いて」と言ってスマホを操作する。

〈……っている。啓太くんを無事に返してほしければ、八千五百万円を用意しろ。また連絡する〉

 加工された声だった。機械的で性別や年齢の判別はつかない。

「最初にうちの名字を確認して、それから『お宅の息子を預かっている』って言い出したの」

「よく咄嗟に録音できたね」と私は感心する。

 うちの固定電話には録音機能がない。令子は機転を利かせてスマホのボイスメモで証拠を残したのだ。自分だったら狼狽してそんなことを考えつかないだろう。

「ほとんど無意識よ。気がついたら、録音してたの。そんなことより、啓太が生きてたのよ。反応が薄くない? 嬉しくないの?」と非難がましく言う。

「本当なら嬉しいよ」

「本当なら?」

「悪戯電話の可能性もある。子供を誘拐して二年半後に身代金を要求するなんて不自然だと思わないか?」

「全然。子供のできない夫婦が溺れている啓太を助けたあと、出来心で攫ったけど子育てに飽きちゃったとか、急にお金に困ったとか、いくらでも考えられる」

 哀れなこじつけに胸が締めつけられる。我が子の死を受け入れられない令子はいつまで経っても『きっと啓太はどこかで生きてる』と信じている。現実を直視できないから、自分に都合のいい考えばかりが先行してしまうのだ。

「そうだね。そういう可能性もあるね」と私は表面上では妻の意見を受容する。

「すぐに警察に通報しようと思ったんだけど、犯人に知られた時のことを考えたら怖くなって。通報しない方がいいんだよね?」

「ああ。今は待とう。犯人は『また連絡する』と言ったんだし」

「でも身代金は用意しなくちゃ」

「なんとかするよ」と話を合わせた。

 令子には申し訳ないが、工面する気はない。単なる悪戯だ。本当に誘拐犯からかかってきたのだとしたら、『どうやって自宅の電話番号を知ったんだ?』という疑問が生じる。当時六歳だった啓太は番号を暗記していなかった。

 この悪戯は、知人の仕業に違いない。令子は事件や事故で心に傷を負った人たちが集う会に参加している。その被害者の会に関係のある人が犯人かもしれない。あるいは、令子の友達か隣人か。うちの電話番号と啓太の不幸を知っている人は限られる。

 なんであれ、どんな根拠を妻に突きつけても徒労に終わるだろう。否定的な意見は彼女の耳には届かない。

「足りない時は、家も車も、売れるものはなんでも売っていいのよ」と令子は鼻息を荒くして言う。

「ああ」

 妻は家計にノータッチ。いくら貯金があるのか、私が毎月どのくらい稼いでいるのか漠然としか把握していない。だから我が家にとって八千五百万がどうしようもない大金であることがわかっていない。全財産を掻き集めても用意できる金額じゃない。

 貯金は一千万ほど。三階建ての一軒家や二台のマイカーや店の権利を売り払っても、精々半分にしかならないだろう。四千万円も貸してくれる親戚や知人の当てはない。

「店の建物も土地も売るのよ」と令子はきつめの口調で釘を刺す。

「わかってるよ」

「本当にわかってる?」

「ああ。大丈夫だよ」

 妻がしつこく訊ねるのは、私の前科のせいだ。結婚してからの四年間は家庭を顧みずに仕事に打ち込んでいた。猛省して家庭人になったけれど、その時期のしこりが未だに根深く残っているのだ。

2018年10月22日より毎日更新

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2018年10月25日発売「無事に返してほしければ」著/ 白河三兎

運営: 小説丸 (小学館)

表紙イラスト:宮坂 猛

Photo: ぱくたそ,  aicocco, 角掛健志

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