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無事に返してほしければ 第七回

by 小説丸

死んだはずの息子が誘拐された。それは一家崩壊の序章に過ぎなかった。

先読み書店員の98%が呆然・驚愕した誘拐ミステリーを、先行公開。

あなたもきっと、騙される!

著 白河三兎

 日付を跨ぐと、私は令子と、クマさんはヒナと交代で仮眠をとった。夫婦は寝室のベッドで、刑事コンビはリビングのソファだ。

 妻は「どうせ眠れないから起きてる」と主張した。でも私は「横になるだけで疲れがとれる。いつまでこの状況が続くかわからないんだから、体力を温存させておかないと駄目だ。肝心な時に動けなくなる」と反対し、半ば力尽くで寝室に押し込んだ。

 朝の五時過ぎ、私はクマさんのいびきを耳障りに思いながら珈琲を淹れ、カップを二つ食卓に置いた。

「ありがとうございます」とヒナは小声で言って口をつける。

 私も一口飲んだ。

「電話での啓太くんの声についてですが、拓真さんはどの程度の確信を持っていますか?」

「正直言って、半々です。よく似ていたけれど、令子のように絶対とは言い切れません」

 事情聴取の際に、妻は『絶対に啓太の声です。母親の私が聞き分けられないはずがない』と訴えた。

「思い込みが働くと、電話の相手の声を誤認することは珍しくないです。オレオレ詐欺でも被害者が強固に『息子に間違いない』と言い張ることが多々あります」

 令子の前では話せない事柄だ。刑事たちは私が一人きりになるのを待っていたのかもしれない。

「人間は先入観に捉われた生き物なんですね」

「ええ。自分の尺度で『必ず』や『絶対』と決めつけるのは非常に危険です。ただ、令子さんが『生きている』と強く思い込むのは、親として当然です。どちらかと言えば、拓真さんの方が落ち着きすぎていて違和感を覚えます」

 ヒナの目が鋭く光る。ひよっこ刑事とは思えない眼光だ。なるほど。クマさんが太鼓判を押すだけのことはある。だが、彼女の鋭利さは刑事としての素質から来るものではないような、生きるために備えたもの、否応なく身につけざるを得なかったもののように感じた。

「私のことを疑っているんですか?」

「犯行に加担している可能性は低いと思っています」と明け透けに言う。「ですが、拓真さんが『生きている』と信じ込めないのは、子供を愛していなかったからでは、と疑ってはいます。生存を望んでいなければ、我を忘れずに対処できます」

「望んでいないことはないです」と思わず持って回った言い方をした。

「でも不仲だった?」

「啓太とも仲良くやっていましたよ」

 無意識に口調が荒くなっていた。

「不躾なことばかり言ってすみません」とヒナは頭を小さく下げた。「私の意図は、啓太くんが犯人とグルである可能性を探ることでした。もし啓太くんに家に帰りたくない深い事情があったのなら、溺れているところを助けてくれた人に匿ってもらったり、その恩人のために犯行の手助けをしたりする動機になります」

 左胸が大きな音を立てた。普通の親子関係を築けていると思っていたけれど、無自覚に余所余所しい態度をとっていたのかもしれない。啓太はどこか疎外感を覚えていたのでは? 父子の間に横たわる溝を察して家に帰りたくないのか? 私を憎んでいるなら、犯人に協力しても何らおかしくない。

 十年ほど前、令子が「友達と温泉に行ってきていい?」と訊ねてきた。家庭人を目指し始めたばかりの私はもちろん快諾した。今まで育児にかかりっきりで自分の時間を持てなかったのだから、遠慮することはない。

 だけど普段ママにべったりの娘は寂しがった。

「ママ、どこ?」

「箱根にいる」

「はこね?」

 私はパソコンを立ち上げ、箱根の画像を検索して亜乃に見せた。

「おふろ」と娘は画面を指差す。

「温泉って言うお風呂なんだよ」

「おんせん?」

「そう。温泉。今頃、ママも入っているかな」

「あのも」

「亜乃も入りたいのか?」

「うん」

「今度、パパとママと亜乃の三人で温泉に行こう」

「おんせん、おんせん、おんせん」と娘はリズミカルに繰り返した。

 私は旅行サイトにアクセスして箱根の温泉宿について調べた。三人で泊まるとなると、露天風呂つきの客室だろうか。日付と人数を入力して検索にかけると、十二軒もあった。

 利用者のレビューを読んでみたけれど、どれも決め手に欠ける。そこで、生の声を載せている個人ブログを探してみた。地道に一軒ずつ検索し、眺望のよい露天風呂、美味しい食事、清潔感のある部屋、気持ちの良い接客を吟味する。

 どのブログも画像をつけて感想を綴っていた。ふと、浴衣のツーショット画像に注意を引かれた。男の方はすかした笑みを作っているが、女は両手で顔を隠していた。その女の耳についているシルバーのロングピアスに見覚えがあった。今朝、玄関で見送った令子の耳たぶの下で揺れていたものだ。

 画面上のカーソルが小刻みに動き出す。ワイヤレスマウスを握る手が震えているからだ。ブログのユーザー名は男の名前。投稿者は男の方か? 記事をアップしたのは一時間前。旅先から更新しているようだ。

 下にスクロールして旅の行程を順々に遡っていくと、眼前に今朝の令子と同じ格好をした女が飛び込んできた。片手で目元を隠し、芦ノ湖の湖上に立つ平和の鳥居の手前で男と体を密着させている。

 カッとなり、マウスをぶん投げた。部屋干し中の洗濯ハンガーにぶつかり、派手な音を立てて床へ落下した。その音に驚いた亜乃が泣きだす。

「うるさい!」

 更に娘は大きな声を上げる。泣き喚く亜乃を無視して洗面所へ行き、顔をバシャバシャ洗う。しかしどんなに擦っても、さっきの光景は悪夢にならない。果てしなく現実だ。ツーショット画像も娘の泣き声も。

 泣きたいのはこっちだ。せっかくほのぼのとした家庭を築こうと改心したのに、なんでこんな目に? あんまりだ。いつから? 旦那が汗水流して働いている間もあの男と? ふざけんな! 何食わぬ顔で裏切りやがって。帰ってきたら間男ともども……。

 ハッとする。目の前に醜悪な生物がいた。憎悪に満ち満ちた顔が鏡に映っている。直視できないほどのひどい顔だ。亜乃が大泣きするのも当然か。不貞を働く母と嫉妬に狂う父。そんな両親じゃ娘が可哀想だ。

 急いで娘のところへ戻って「ごめん。パパが悪かった。本当にごめん」と謝り、抱きかかえた。子供に罪はない。身から出た錆だ。家庭を顧みなかった私に妻を咎める資格はない。

 夫婦関係の修復のために令子と話し合おうとしたが、離婚の可能性に臆して切り出せなかった。親権を取られたら亜乃と離れ離れになる。今の私にとって娘はこの世で一番大切な存在だ。亜乃の成長をそばで見守ることが生き甲斐になっている。娘にとっても、親は二人揃っている方がいいはずだ。

 亜乃との離別に尻込みし、娘にとってのベストな選択に頭を悩ませていたら、令子に「二人目ができた」と告げられた。脳裡に間男の笑顔が過る。だけどすぐに悪い想像を振り捨てて無理やり歓喜の言葉を吐き出した。

 どちらの子であろうと私に選択肢はない。事を荒立てれば亜乃を失うリスクが生じる。疑惑から目を背け、自分の子だと信じ込む以外に進める道はなかった。

2018年10月22日より毎日更新

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2018年10月25日発売「無事に返してほしければ」著/ 白河三兎

運営: 小説丸 (小学館)

表紙イラスト:宮坂 猛

Photo: aicocco, 高見恭子

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