LOG IN

無事に返してほしければ 第十五回

by 小説丸

死んだはずの息子が誘拐された。それは一家崩壊の序章に過ぎなかった。

先読み書店員の98%が呆然・驚愕した誘拐ミステリーを、先行公開。 

あなたもきっと、騙される!

著 白河三兎

 二〇二号室のドアをノックし、「拓真だ」と告げる。しばらくしてドアが開いた。令子と顔を合わせるが早いか彼女に抱きつく。後退りされたけれど、私は強引に抱き締めて妻の首筋に顔を埋める。そして「盗聴されているかもしれないんだ」と囁いた。

 事情を呑み込んだ令子は私の腰に腕を回した。

「捜査に関することは喋るな。重要なことは抱擁の振りで」と私は小声で伝える。

 妻の顎が小さく上下した。私は腕の力を緩める。するりと令子の体が抜けていった。

「犯人から連絡は?」と訊きながら妻のあとについてベッドルームへ入る。

「まだない」

「そっか」

 令子はベッドに腰かけ、私も隣に座った。数分の無言のあと、妻が「そのブーツ、履くの久し振りじゃない?」と言う。

「ああ。亜乃が履いてほしがったから」

 ラブホテルの駐車場に停めてから車中で履いた。

「へー」

「亜乃はワイルド系の男が好みのタイプなのかもな」

「そうね」

 どことなく会話がたどたどしい。盗聴器が気になるからか? いや、原因はそれだけじゃないだろう。

 また沈黙が二人の間に居座った。

「何か飲む?」と令子が気遣う。

「あ、うん。水を」

 妻が立ち上がり、冷蔵庫を開ける。その時、テーブルにあったミネラルウォーターのペットボトルが目に入る。まだ半分ほど残っていた。

「令子の飲みかけでいいよ。そんなに喉が渇いていないし」

 しかし彼女は冷蔵庫から新しいミネラルウォーターを取り出して私に手渡し、さっきよりも少しだけ間を空けて座った。それから長い無言が夫婦間に横たわった。

 十五分ほど経ってから、私は「ラブホなんて何年ぶりかな」と独り言のように言う。だが、妻は「身代金は大丈夫そう?」と別の話題に変えた。

「たぶん大丈夫だと思う」

「たぶん? 確認しなかったの?」

「ああ」

「どうして?」

「なんとなく、令子の車には近付かない方がいいと思って」

「なんなの? ちょっとくらい覗いてくるもんでしょ。身代金がなくなったら、亜乃や啓太は戻ってこないかもしれないのよ」

 徐々に怒気を孕んでいった。

「すまない」としか言いようがない。

「もう、しっかりしてよ。大体、なんであの刑事たちをチェンジしなかったのよ?」

「チェンジ?」

「別の刑事に代えてもらえばよかったのよ。あの人たちのせいで亜乃は連れ去られたんだから、正当な要求でしょ。上の人に掛け合えば、代わりに優秀な刑事をよこしてくれたはずよ」

「それができたとしても、クレーマーのレッテルを貼られる。代わりの刑事たちに『仲間のクマさんとヒナを邪険に扱いやがって』という気持ちがあったら、捜査に本腰でかからないかもしれない。そう考えて刑事の交代を断念したんだ」

 チェンジなんて考えもしなかったが、令子に話を合わせた。

「じゃ、体たらくの慰謝料代わりに身代金を全額肩代わりしてって警察に要求した?」

「は?」

「警察の怠慢で亜乃まで誘拐されたんだから、当然の権利でしょ。渋っても『マスコミに言い触らす』とかなんとか言えば、いくらでも用意してくれたわよ。啓太が行方不明になったのだって、警察の怠慢なんだし」

「それこそクレーマーだと思われる。誰も真剣に捜査しなくなるよ」

「それとこれは別よ。市民を守るのが警察の務め。厳しい試験と訓練を受けてきた刑事は仕事に私情を挟んだりしない。きっぱり割り切って働くものよ」

 令子は自分の尺度でしか物事を考えられない。にも拘わらず、浅薄である自覚は皆無。むしろ常に自分の考えが正しいと信じている。その自信がどこからくるのか不思議でしょうがない。

「みんなの税金で成り立ってる組織なんだから、私たちがボスのようなものよ」と妻が前のめりになって捲し立てる。「下手に出る必要なんてない。なんで刑事たちの分も料理を作ったの? そんなことをするから付け上がるのよ」

「少しでも恩を売っておけば、クマさんとヒナから事件解決のやる気を引き出せる気がして」

「あー、みっともない。拓真っていっつもそう。外ヅラだけはいい。人の顔色を窺って胡麻を擂ってばっか。あっちにもこっちにもいい顔をするから、万遍なく中途半端になる。どうせ『これを機に警察の人たちが自分の店の常連客になるといいな』って下心もあったんでしょ?」

「あるものか!」と思わず声が大きくなった。「亜乃と啓太が無事に戻ってくること以外に望んでいるものはない」

「何よ、今更父親ヅラして。元はと言えば、拓真が申し訳程度の家族サービスをやりだしたのがいけないのよ。自分勝手な気紛れで子供たちに危険な川遊びを教えていなければ、啓太は行方不明にならなかった。誘拐事件なんて起きなかった。こんなことにはならなかったのよ」

 私は言い返そうと口を開きかけたけれど、すんでのところで留まる。

「何? 言いたいことがあるならはっきり言ってよ」と令子が顔を醜く歪めて煽った。「本当に男らしくない。だから貧乏くじばっか引くのよ。情けないったらない。そんな調子じゃ、スーシェフに店を乗っ取られるのも時間の問題ね」

「啓太は箱根旅行で仕込んだ子か?」

「なに言ってんの?」

 もう止まれなかった。

「浮気してたのは知ってるんだ」と畳み掛ける。

「ひょっとして、わざとカヤックを転覆させたの?」

「な……」

 呆気に取られた。開いた口が塞がらない。私が絶句しているのをいいことに、妻は「そうよ。わざとやったのよ。最初から殺すつもりで家族サービスを始めた」と決めつけた。そしてそろそろと立ち上がり、私と距離を置く。

「違う」

「違わない。殺す気だった」

「おい、落ち着け」と私もベッドから腰を上げ、令子に歩み寄ろうとする。

「来ないで!」

 彼女はズボンの後ろポケットから折り畳みナイフを出し、刃先を私に向けた。私のキャンプ道具だ。いつの間に持ち出したんだ?

「本当に違うって。妊娠を告げられた時に『誰の子であろうとも等しく愛す』って心に誓った」

「心はコントロールできるものじゃない。本人が何を思っても、どんな覚悟をしても、心は感じた通りにしか動かない。人間はロボットじゃないから」

「そんなことない」

 声を大にして否定したが、胸にどす黒い罪悪感が広がっていった。啓太を助けようと手を伸ばした時に、私は一瞬だけ躊躇った。ほんの一瞬、このまま流されて死んだら、という考えが頭を横切った。

 すぐに邪念を振り払い、引っ込めた手を再び伸ばそうとした。だが、後頭部に強い衝撃を受け、意識を失った。一秒もなかったであろうそのタイムロスが私たち家族の運命を大きく変えてしまったのだ。

「違うって証明できる?」

「論点をずらすな。浮気していたかどうかを訊いていたんだ。答えろ」

「してたわよ。拓真が仕事バカで家庭を顧みなかったんだから、浮気の一つや二つくらい……」

 令子が開き直っている途中で、彼女のスマホの着信音が轟いた。私は不意を突かれたが、妻は即座に電話に出る。

 新たなメッセンジャーからの言伝は『日野拓真は自分の愛車に身代金を載せ換え、運転席で待機しろ。追って指示する』だった。

 私を運び役にして犯人になんのメリットがあるんだ? 受け渡しの時に抵抗されることを憂慮すれば、腕力の弱い女性の方が好ましいはずだ。この部屋での会話を聞いていて、『奥さんは話が通じなそう』と判断したのか?

 私は不可解に思いながらも「行ってくる」と令子に言ってドアへ向かう。すると、妻が追いかけてきて私の背中にしがみついた。彼女も『今生の別れになるんじゃ?』とゾッとしたのだろう。

 と思っていたら、令子がダウンジャケットのポケットに何かを入れた。私も手を突っ込んでみる。この形と手触りは、折り畳みナイフだ。妻がか細い声を震わせて「お願い。刺し違えてでも子供たちを取り戻してきて」と頼んだ。

 令子はそう覚悟してこのナイフを持ち出したのだ。彼女なりに母親としてできる限りのことをしようとした。子供たちには最大限の愛情を注いでいる。今はそれでいい。それだけでいいんだ。

 私も父親としての責務を果たそう。この命に代えても亜乃と啓太を令子のもとへ帰す。いざとなれば犯人の首元にナイフを突きつけ、『子供たちを解放しなければ殺す』と脅してやる。もし仲間がいれば、その一人を人質にして交渉するんだ。

「わかった」と私は妻の覚悟を引き継ぎ、殺意を胸に宿して部屋を出た。

2018年10月22日より毎日更新

無事に返してほしければ 第一回

無事に返してほしければ 第二回

無事に返してほしければ 第三回

無事に返してほしければ 第四回

無事に返してほしければ 第五回

無事に返してほしければ 第六回

無事に返してほしければ 第七回

無事に返してほしければ 第八回

無事に返してほしければ 第九回

無事に返してほしければ 第十回

 無事に返してほしければ 第十一回

 無事に返してほしければ 第十二回

 無事に返してほしければ 第十三回

 無事に返してほしければ 第十四回

 無事に返してほしければ 第十六回

2018年10月25日発売「無事に返してほしければ」著/ 白河三兎

運営: 小説丸 (小学館)

表紙イラスト:宮坂 猛

Photo: aicocco, 角掛健志

OTHER SNAPS