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無事に返してほしければ 第十六回

by 小説丸

死んだはずの息子が誘拐された。それは一家崩壊の序章に過ぎなかった。

先読み書店員の98%が呆然・驚愕した誘拐ミステリーを、先行公開。 

あなたもきっと、騙される!

著 白河三兎

 ミニクーパーからランドクルーザーに二つのアタッシュケースを載せ換え、運転席に乗り込んだ。すると、助手席に板状のチューインガムが置いてあった。包装されていない裸の板ガムが七枚重なっていたのだが、どれも表面に文字が刻まれている。

《スグニスマホヲソトニステロ》

《ランカンノナイハシヘムカエ》

《シゼンニスベテノガムヲカメ》

《ハシノテマエギリギリニトメロ》

《カネトワンピヲモッテオリロ》

《ハシノマンナカヘイケ》

《ガムヲカワニハケ》

 これは犯人からのメッセージだ。おそらく『すぐにスマホを外に捨てろ。欄干のない橋へ向かえ。自然に全てのガムを噛め。橋の手前ギリギリに停めろ。金とワンピを持って降りろ。橋の真ん中へ行け。ガムを川に吐け』ということだろう。

 私は周囲を見回した。この駐車場のどこかに犯人の一味がいる。ガムをランドクルーザーの助手席に置き、私がスマホを車外に捨てるのを見張っている。捜査員と同様に利用客を装って車の中に潜んでいるのか?

 ともかく、スマホを車外に放置せざるを得ない。身代金の受け渡しの時にはボディチェックされるのだから、隠し持つことはできない。一旦、車を降りてスマホを地面に置き、それから出発した。

 警察は私のスマホの位置情報を追えなくなったけれど、身代金とアタッシュケースの発信器があるので尾行に支障はない。だが、犯人は警察が追尾することも想定している。でなければ、『自然に全てのガムを噛め』とは命じない。

 あのメッセージは、『尾行する捜査員にガムの指示内容を伝えたり、捜査員が違和感を抱くようなガムの食べ方をしたりするな。自然な動作で証拠隠滅を謀れ』という意味だ。だから犯人の一味も私を追尾し、私が指示を無視しないか監視している可能性が高い。

 口にガムを一枚放り込み、身代金を受け渡す時のことをあれこれシミュレーションする。きっと一瞬のうちに終わるだろう。警察の尾行を織り込んでいる犯人がもたもた時間をかけるはずがない。さっと身代金を受け取って姿を晦ませる気だ。

 間違いなく犯人には警察を撒く秘策がある。だからこそガムで指示を伝え、スマホを捨てさせた。警察に情報が流れて欄干のない橋に先回りされなければ、逃げ切る自信があるのだ。

 欄干のない橋はこの地域では有名な橋だ。啓太が行方不明になった川にかかっていて、私たちが乗ったカヤックが転覆したポイントのすぐそばだ。事故以来、あの川には行っていなかった。曰く付きの場所だが、啓太を取り戻すのに相応しい地でもある。

 私は味がなくなる度に口にガムを補充しながら目的地を目指した。亜乃、啓太、もうすぐだ。必ず助けるから、どんなことをしてでも我が家に帰すから、あと少しだけ頑張ってくれ。

 雨は降り続け、欄干のない橋に到着した時には強まっていた。だから娘のワンピースが濡れないよう、着ていたダウンジャケットの中に入れ、ファスナーを首元までぴっちり上げ、フードを被った。そして本物のお金が詰まったアタッシュケースを持って車を降り、一車線ほどの幅しかない橋を進む。

 いきなり襲ってくることが懸念される。奪われないようショルダーベルトを斜め掛けにした。犯人がこのベルトをつけることを要求したのは、長時間持ち運ぶからか? 徒歩で山にでも逃げるつもりかもしれない。

 だが、熊のぬいぐるみはどうするんだ? タオルケットとサッカーボールとワンピースはさほど荷物にならないけれど、ぬいぐるみは大きい。抱えて逃げるのは大変だ。百六十センチもあることを把握しているのか?

 そういえば、なんで身代金とワンピースだけ橋の真ん中へ運ばせるんだ? 子供たちの品物も陽動作戦の一つか? まだ生きていると思わせる偽装工作でないといいが……。

 私は恐ろしい想像に囚われつつ橋の真ん中でガムを吐き出した。あたりは真っ暗でほとんど視界が利かないので、川に落ちるところは見えない。激しい水音でガムが着水する音も聞こえなかった。通常なら水面まで一メートル半はあるのだが、今は一メートルもなさそうだ。

 犯人が近付いてきても、足音は掻き消されてしまう。神経を研ぎ澄まして警戒しなくては。そう用心した矢先に、うっすらと人影が見えた。車を停めた方からやって来る。私はポケットに手を突っ込み、折り畳みナイフを握った。

 人影は一つ。一人だけだ。小さい。子供だ。どっちだ? 亜乃だ。パジャマ姿で裸足の娘がよろよろと近付いてくる。私は駆け寄り、片膝をついて亜乃を抱き締めた。

「大丈夫か? 亜乃? どこか痛めてないか?」

「うん。平気」

 言葉に確かな生気があった。非道な扱いは受けていなかったようだ。私は娘としっかり顔を合わせ、「啓太は?」と訊ねる。

「私がちゃんと言うことを聞いたら家に帰してくれるって」

「何を指示された?」

「アタッシュケースを渡してくれる?」

 私は亜乃と体を離し、ショルダーベルトを肩から外す。そして娘の前に置いた。

「これをね」と言ってアタッシュケースの持ち手を握った。「川に……」

 持ち上げようとした亜乃はバランスを崩す。危ない! と思った時には、娘の体は真横になっていた。アタッシュケースに引っ張られるようにして橋から落ちる。

 次の瞬間には、亜乃を追って川へ飛び込んでいた。ものすごい勢いで流されていく。暗くて娘の姿が見えない。どこだ?

「亜乃! 亜乃!」と必死に呼びかける。

 返事はない。もっと大きな声で叫ぼうとしたけれど、四方八方から水が襲ってくる。満足に呼吸ができない。流れが激しくて身動きが取れない。体が重い。水面から顔を出せない。どんどん沈んでいく。このままだと溺れる。

 私は死んでもいい。自業自得だ。啓太を助けるのを躊躇った私に相応しい死に方だ。けど、亜乃に罪はない。無垢ないい子だ。せめて娘だけは助けてください。私の命を捧げますから。

 薄れゆく意識の中で一心に願った。どうか亜乃を……。

娘の命だけは……。

2018年10月22日より毎日更新

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2018年10月25日発売「無事に返してほしければ」著/ 白河三兎

運営: 小説丸 (小学館)

表紙イラスト:宮坂 猛

Photo: aicoccoPexels

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