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冥土ごはん 第一回

by 小説丸

著 伽古屋圭市

イラスト: 北村みなみ

あの世とこの世をつなぐ洋食店で起こる、五皿の奇跡を描くミステリー。

すでに続編が熱望されている注目作の第一話「別れのライスオムレツ」を先行公開。

あなたの“最後の晩餐”は何ですか?

第一話 別れのライスオムレツ

 穴の向こうから、甘く、香ばしい匂いが漂ってきた。

 瞬間、和泉沢悠人は弾かれたように顔を上げた。

 梅雨の最中、晴れ間を見計らってコインランドリーに出かけたものの、帰りに道に迷い、疲れ果てて足を引きずるように歩いていた。けれどその匂いで、にわかに気力を取り戻す。

 これは、デミグラスソースの匂い──。たしかな予感とともに悠人は立ち止まり、穴を覗き込んだ。

 穴──。たしかにそう表現するのが相応しい、路地とも呼べない道だった。ビルの壁面と、家屋の板塀とに挟まれた狭い道。塀を越えた枝葉が頭上を覆っているので、穴、あるいはトンネルのように見える。障害物はなく、通り抜けるのに支障はなさそうだ。

 洗濯物の詰まった紙袋と期待を胸に抱え、悠人は躊躇うことなく薄暗い穴へと足を踏み出した。

 一歩、一歩と、踏みしめるごとに、匂いが強くなる。やがて穴を抜けると、頭上から六月のやわらかい光が差し込んだ。ビルや家屋に囲まれ、ぽっかりと空いた正方形の土地。その中心、目の前には、匂いの主が堂々たる姿を現していた。

 二階建ての、四角い家。前面の大半がツタに覆われている。玄関付近には道をつくるように鉢植えなどの緑が溢れ、木製の扉が見える。焦茶色に縁取られた色褪せた赤い扉は、落ち着きとともに、洒落た雰囲気を醸していた。そして扉脇に掲げられた木製の看板が、抱いた予感が正しかったことを証明してくれていた。

〈洋食店 幽明軒〉

 さらに玄関扉にぶら下がる木札。〈CLOSED〉

 開店前、か……。悠人は小さくため息をついた。

 時計がないので正確な時刻はわからないけれど、おそらくいまは午後五時前後。開店まで待つべきか、という思いが胸に去来する。

 漂うデミソースの匂いは、ここが間違いなく上等な店だと告げていた。デミソースは洋食店の基本であり、要であり、看板なのだ。少し変わった、いや、ずいぶんと変わった名前の洋食店だけれども、きっと絶品の料理を出してくれるはずだ。

 そこまで考え、ダメだダメだ、と悠人は激しく首を振った。食うに事欠く現状で、外食などという贅沢が許されるはずがない。決意を固め、踵を返した、刹那──。

 ──カランコロン。

 軽快なドアベルの音が響いた。反射的に振り返る。

 二十歳前後、自分と変わらない年ごろの女性が顔を覗かせていた。すぐさまこちらに気づき、笑みを浮かべる。

「あら、当店に来てくださったお客さまでしょうか。ちょうどいま開店するところです。どうぞ!」

 空に伸びるような、それでいて少し甘えた感じのする、素敵な声の持ち主だった。〈OPEN〉と書かれた木札を胸の前で持ち、天使のような笑みを浮かべている。小首を傾げ、左右の耳のうしろで結んだ髪が揺れる。世界が光に満ちた気がした。

「あ、はい」

 躊躇なく頷く。頷かざるを得ない。頷かなければ人ではないと思う。

 先ほどの決意はどこへやら、扉を開けてくれている彼女に軽く会釈をしつつ、悠人は店内へと足を踏み入れた。明日以降の食費は、とりあえず考えないでおく。

 テーブル席のみで、二十人も入れば満席となりそうなこぢんまりとした店だった。奥には厨房と繋がるカウンターがあり、白い調理服を着た人物がちらりと見えた。

 洗濯物の詰まった紙袋を足もとに置いて、悠人は壁際にある二人がけの席に座った。彼女がお冷やとメニューを持ってきてくれる。

 ざっとメニューに目を通したあと、財布の中身をそっと確かめ、「あの──」奥に戻ったばかりの彼女に声をかけた。

「オムライスを、いただけますか」

「オムライスですね。かしこまりました」

 夢見心地にさせるような声と笑みで、彼女は優雅に一礼した。

 メニューを閉じ、悠人は所在なげに店内を眺める。壁に掛けられた時計を見やると、やはり五時をほんの少し回ったばかりだった。窓に目をやるも、ビルの壁面しか見えない。手持ち無沙汰になった悠人は、ふとポケットから木の匙を取り出した。

 いつも持ち歩いているものだった。古びた、不思議な文様の描かれた匙。これを見るたびに、このままじゃダメだと焦りを覚える。けれど自らを鼓舞するため、常に持ち歩き、ときどき眺めるようにしていた。

  やがて料理が運ばれてきて、悠人は慌てて匙をポケットに戻した。

2018年11月30日より毎日更新

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写真提供: aicocco,ぱくたそ

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